2022-09-15

わたしの病気の おはなし

今回は、私が3年半前に患った病気のお話をさせて頂きます。先にお伝えしておきたいことは、予後がよく、今はあと1年半の経過観察を終えるだけとなりました。

芸能人でもインフルエンサーでもない私が、このようなパーソナルな話をすることを不思議に思う方もいるかもしれません。1年間マガジンを運営しながらいつか皆様にお話しできる自分の心の準備ができた時、お届け出来ればと考えていました。

これは、私の身体の中に出来た「わたしの病気の おはなし」です。黒い感情や病気のことを受け入れてくださるか自分でも不安ですが、お話しします。

わたしの病気の おはなし

35歳の誕生日を3週間後に控えた34歳の冬、私は癌と宣告された。

上行結腸がん。

「気付いていたかもしれないけど、これね、悪性だよ。」

横になってカメラが入った身体のまま、視線の先にある壁に貼られたポスターを見つめながら、この病名を聞かされた。ポスターに印刷された文字の色や描かれたイラストはなんともメルヘンで、こっちはそんなテンションじゃないのにな、というギャップと、同時に聞こえてくる看護師さんの声や機械の音。バタバタとし始めた状況に、現実を受け入れならなかった。頭の片隅にあった悪い想像が現実に起きてしまったという、頭と心が一致しない浮遊感と次に来たのは絶望。検査が始まってすぐ、外科の先生を呼ばれたことで、もう察していた。【走馬灯】というよく言うアレが頭では浮かんでいた。

「家族になんて言おうかな。悲しむよな。」

私の病気は、6人目の先生にやっと見つけてもらえた。今までの医師は、私の年齢が若いことを理由に、癌であることを疑わず、否定し続けていた。右下腹部のシコリ。私は不安で不安で毎日検索魔になっていた。素人なりにスマホで調べて、勝手に疑った悪い病名を考えながら過ごした日々に、今まで見つけて貰えなかったことが悔しくて、見つけてくれた先生を責めて泣き続けた。矛先がなかった。今思うと申し訳なかった。

「残念だけど初期ではなく、十分に戦うべき相手。不幸中の幸いだけど、今病院に来てくれて本当に良かったよ。」

翌日に外科の先生との面会を予約し、仕事中に呼び出してしまった家族と一緒に夕方、帰宅した。何か音がしないと落ち着かなかったのか、普段観ないTVのニュースをつけたら、ちょうど池江璃花子さんが病気を公表していた。悲しかったと共に私だけじゃない、と仲間が出来た気になったし、ソファに座って川村カオリのことを考えた。

まさか彼女と同じ病気になるなんて、と信じられなかったけど、20代であの本を読んで彼女の病に対する精神を見ていた事が財産だと思えて救われた。「どうして私だけが、、。」みたいに神様を恨んだり、病気になった自分を責めたり、傷つけるのはやめとうとした。そして心に決めたことは、

「私がこの病気になってしまったのが運だったとしても、結局は自分で作ってしまった病気。だから、自分の病気は自分で治そう。」

腹を括った。手術までは2週間。体調管理を徹底すること以外に、唯一できることは、主治医を信頼することだった。「私は寝てるだけだから、先生、手術頑張ってね。」の他力本願。早く身体の中にある悪いものを取ってしまいたい。後から分かったことは、主治医は私の2つ歳上で、同世代が毎日命を救っていることが衝撃だった。

34歳。この年齢はAYA世代と呼ばれ、思春期から39歳までを指す、就学、就職、結婚、出産、育児といった生活の上で、大きな変化を迎える時期。私は、その年齢で望むことのいくつかを諦めた。

SNSの中の人達はとても楽しそうだった。人生というと大袈裟だが、あの人たちの日常は、私にない。生活を奪われたような気分だった。それでも、SNSで見えるのは、一部分であって、私も彼らにいい面しか見せていないのと同じ様に、きっと彼らも何かを抱えながら生きているんだ、と人の見えている部分ではない、もう一つの側面も必ず考える癖がついた。

それでも何度も襲う悲しさみたいなものは来たし、何度もお風呂場で泣いた。わざわざ涙を拭いたり鼻を拭かずにシャワーで流せるそこは、泣くのにはちょうど良かった。

私のお腹には5つの傷が出来た。

10を数えている途中で目を覚ましたら、執刀医が私の名前を呼んでいた。「終わりましたよ、よく頑張りましたね。」なんて言われたけど、「いやいや、そちらの方が頑張ったでしょ。お疲れ。」と思えるまで、意識がはっきりしていた。そして、先生や麻酔科医、手術室の看護師さん達がこの世を救うヒーローに見えた。「本当にありがとうございます。」とドラマみたいに振り絞ってお礼を言ったのを覚えている。3時間弱。この時間どころか病気が分かってからずっと、家族は心配でたまらなかっただろう。

傷の痛みと火を吹くような腹部の熱。炭酸ガスによる脇腹と肩の痛み。痛みで横になれず、座ったままの状態での睡眠。睡眠不足。術後、食事が取れない中での食べ物の匂いが充満する病室。背中の管から伝ってくる麻酔薬の冷たい感覚。色んな管に繋がれて自由に動けない自分が情けなかった。手を洗う度に鏡に映る、やせ細ってしまった自分の姿。貧血が最低値になり、輸血を2つした。顔は青白くて、フラフラで掴む力もなくて、何も触れなかった。窓際のベッドからは、今まで元気に自転車をかっ飛ばしていた交差点が見える。そこを忙しそうに通勤する人達や幸せそうに手を繋いでいる家族が羨ましかった。35歳の誕生日は、病院のベッドの上だったから。

それでも何気ない喜びも沢山あった。井戸端会議をする同室のおばあさん達のくだらない話。術後の味気ない汁物から、数日後に出た塩がついたすまし汁のしょっぱい味がこの世の食べ物で一番美味しいと感じた。傷をかばって歩くことしか出来なかった身体が、少しずつ元に戻っていくことを感じた時。管が全て外れた時の開放感。自由を手に入れたような気分だった。毎朝元気に挨拶してくれるヘルパーさん。いつも忙しなく働く看護師さんがつける香水がかおり、彼女のおしゃれ心を垣間見れた時。(具合悪い時は迷惑だがな。)友人や家族が毎日お見舞いに来てくれたこと。回復が順調で退院の許可が早く下りたこと。数週間ぶりに外に出れることが嬉しくて、退院には真っ赤なコートを着て帰った。付き添いに毎日来ていた何処かのおばさまに、「もう、ここへは来るんじゃないよ!」と言って送り出された。

何より嬉しかったのは、桜が満開に咲く頃、検査の結果が良かったことだった。その帰り道に見た空は、自分の心を写したように、清々しいくらいに真っ青で、うっすらした桃色の桜とのコントラストがとても綺麗で、儚くて美しかった。

今は、窓際のベッドから人を羨ましそうに見る私ではなく、信号待ちをするあの交差点で、病院の窓を見上げている。信号が青に変わり、私はまた進み出せた。その交差点にいることに喜びを感じながらも、今も窓の向こうからこちらを見ている人がいる、ということを忘れないようにしよう。

40歳の誕生日。あと1年半でこの病気は完治する。再発や転移の不安はあるけど、正直あの時の傷の痛みも心の痛みも忘れてしまった。人間は、都合がいい様にできている。今も3か月に一度病院を訪れると、たくさんの気持ちを抱える。入院をしようとしている人。緊急で運ばれてくる人。たった今、手術が終わった人。不安でしょうがない人。ホッと安心する人。たくさんの人と想いで溢れるこの場所で、何も悪いものが出ませんように、何も変なものが映っていませんようにと、一瞬目をぎゅっとして、今も先生のいる部屋のドアを開けている。


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Text & Edit & Artwork : Sonoka Takahashi

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